いつか終わりが来るまで

3月から心療内科に通い始めたので、生活の事や心の動きを観察してゆくために。

4月11日

 

両親と子供の頃のこと

 

物心ついた時から、飲み屋かパチンコ屋か車の中にいた。

赤ちゃんの頃の写真を探すと、飲み屋のお姉さんに抱っこされているものばかり出てくるくらいに。

 

母方の祖父母は焼き肉店を営んでいた。

学校が終わると金曜日の夜から母と祖父母の店に行き、幼稚園だか、その前だか、小学生だかの私はお小遣いを持たされ、夕方の駅ビルをブラブラしていた。

本屋に行って本を買ったりCDを買ったり、雑貨屋でシールを見たり。

一通り見まわすと、祖父母の店に顔を出し、店の前に停めてある車に乗り込む。

車の中には5連のCDプレーヤーや、テレビ・ビデオが設置されていた。

今考えるとすごいよなあ。当時はそんなオプション自体あったかどうか。

私は車の中で、お客さんの波が引くのを待つ。

当時は景気もまだ良くて、お客さんはなかなか引かない。

私が夕食を食べに店へ行けるのは、いつも22時とか。

混んでいて店に入れない時は車の中で食べた。

時には更にお小遣いを貰い、近所の吉野家モスバーガーにご飯を食べに行った。

0時を過ぎて店が落ち着くと、祖父母の家へ行く。

お風呂に入り、祖父母の帰りを待ちながら、コタツでうとうとしていた。

祖父母が帰ると今度は大人たちの食事で、わたしもお刺身を食べたりした。

祖父は可愛いものに意地悪をする人間だったので、コタツで眠る私を何度もくすぐっては起こし、また寝たらくすぐっては起こし、を繰り返していた。

大人たちが満足すると、私は寝室へ行く。

大体3時頃だった。

 

たまに、父が迎えに来てくれる事もあった。

その時は、露店でアクセサリーを買ってもらったりしたけれど、殆どは帰り道にパチンコに連れていかれ、終わるのをじっと待っていた。

 

 

平日は、ピアノとバレエと英語と数学を習っていた。

一番じゃなければ怒られてしまうから、ひどく緊張しながら通っていた記憶がある。

そしてその緊張の糸もいつか切れるのだ。そして、ひとつ、またひとつと行かなくなり、中学生になってからは、受験前に塾に入りなおしたくらいだった。

両親はこの頃もう、私に対して諦めていたんだろう。

 

そう、それはまだ小学生以下で、習い事をしていた時。

それ以外の日は学校から帰るとまず自分の家の駐車場を確認する。

車は、大概無い。

そんな時は、両親が、もしくは母が、パチンコに行っていた。

私はよく家の鍵を無くす子供だったので、どうしてもトイレが我慢できない時は、近所の幼馴染の家に助けて貰っていた。

言動も行動もおかしな子供だったので、用が済んだらすぐに家を出されたけれど。

そして、駐車場で母が帰ってくるのを待つ。

赤いダニを潰すのがすごく好きだった。今も好きだ。

話がそれた。

2.3時間も待てば母が戻ってくる。

私が車を認識して、母が私を認識する。

「早く乗って!今確変中だから!!!」

言われるまま車に乗り込み、ここでもまた、終わるのを車で待つ。

車に積んであるテレビで、ビデオに録画したアニメを見ながら。

22時過ぎに母は車に戻ってきて、そこからファミレスに夕飯を食べに行く。

母は料理が作れないから。

パチンコに行くのが母一人の時は勝とうが負けようがまあ、そうでもなかったけれど、父が一緒に行き、大負けした日には本当に最悪だった。

前の座席で繰り広げられる喧嘩、お互いを罵りあっていた。

二人とも直情的な人間で、喧嘩がヒートアップすると、父は車を飛び出して、携帯をどこかに捨てて、行方をくらましてしまう。

私と母はそれを追いかけまわしたり、夜中に居なくなってしまった時は叩き起こされ、町中を探し回った。

知っている飲み屋、いつも通る道、いつも通らない道、探して探して、見つかると父は泥酔して、わいわい喚いていた。内容なんかは覚えていないけれど。

 

そう、父は酒乱なのだ。その上パチンコ依存症なのだ。

何かあればパチンコパチンコ、勝ったらいつもより優しくて、負けたら鬼のようだった。本当に、あれは鬼だったんだ。ところでいつもって何なんだろう?

そして酒を飲み、暴力こそしないけれど、物に当たり、怒鳴り散らし、出て行ってしまう。

そして母と捜索に行く。繰り返し。

 

母もパチンコ依存症だった。お酒は飲むけれど、楽しい酒が飲める方、、、だと思う。

パチンコは今はもう辞めて、携帯ゲームばかりしている。

スマホタブレット、総勢7台体制で。いやー、よくそんなに夢中になれるもの、あるよな。すごいよな。ところでお金、どこから出ているんだろうな。。。

私が何度、死にたい、苦しい、助けてほしいと言ってもため息をつくだけだけれど、ゲーム内の友人がちょっと病んだら一晩中、電話で話を聞いてあげている。

家族<ゲーム まさに依存症の典型!という感じの母親だ。

 

祖父母の家に行かなくなったのは中学校に上がって少ししてからだった。

土曜日は元コックの父の手料理が食べられる日だったが、やっぱり頭が少しアレだから、とんでもない量を出してきて、完食しないとまた怒鳴り散らしたりした。

テレビで美の巨人たちを見るのだけが楽しかった。

 

多分、子供の頃はこんな感じで終わった。

そして私は高校卒業後フリータになって

成人して

家を出た。

 

彼と半同棲の頃、実家に戻っていたら父親に「別れたら、パパとママ、どちらについていく?」と唐突に聞かれた。

母はまず会話にならないので、酒乱は気になるけど距離さえ保てばまだ話の通じる父について行こうと思った。

「パパについていく。ママとは、ちょっとやっていける気がしない。ママの親族とも。」

そう言うと

「そうだよな。あいつら皆韓国人だしな。文化が違うもん。」

26歳の頃だった。

初めて、自分が混血なことを知った。

衝撃的だった。私にとっては、世界が音を立てて崩れるくらいに。

私は日本国籍の父が出生届を出したから生まれてからずっと日本国籍だったけれど、周りは何百万もかけて全員日本に帰化したそう。

26年間嘘をつかれていたという事実が一番、苦しかった。

 

その後何とか関係を立て直したけれど、父のパチンコ依存症も酒乱も治らないし、母のソーシャルゲーム依存症も治らない。何も変わらない。ただ年だけ取っていく両親のこの先を、私はどんな気持ちで見ていけばいいのか、まだちょっとわからない。

 

両親についてはもっと沢山お話ししたい事があるけれど、今日はここまで。

 

今日はお天気が良かったからか、まだなんとか元気だったけど、やっぱり、会社にいることが苦しくなってきてしまったので、タイムリミットは近付いているのかな、と感じた。