いつか終わりが来るまで

3月から心療内科に通い始めたので、生活の事や心の動きを観察してゆくために。

4月9日

はじめに。

 

私が精神科に通い始めたのはずっと前だった。

 

中学一年生

うちの学校は必ず部活に入らなければならなかった。

その中で、ここだけは入ってはいけないと言われていた部活があった。

吹奏楽部     「一種の宗教」と呼ばれていた。

わたしは、頭が悪い上に目立ちたがりで、器用貧乏なため体験入部の時から普通に音が出た。

そこで気を良くし、まんまと吹奏楽部へ入ったのだった。

 

私の希望していたパートはトランペットだった。

パーンと響く音が強くかっこよく思えた。

入部の際には全員、希望のパートを記入した用紙を提出した。

第一希望:トランペット 第二希望:コントラバス 第三希望:チューバ

まだ⒔4のぽやぽや頭なのだから、第一希望のパートに決まるものだとばかり思っていた。

発表の日、ドキドキしながら結果を待っていると、伝えられたパートは

【チューバ】

ほかに希望に記入した人は一人もいなかったそうだ。

そりゃあ、そうなるんだろうな。

大人になってやっとわかったけれど。

 

チューバパートは先輩は全員男性。

対して私、152㎝で割と小柄なほうの女性。

チューバは10キロの楽器。

これからどうなるんだろうか、そんな新学期だった。

(ちなみに、私の欲しかったトランペットパートを獲得したのは、学年一背の高い、すらりとしたバレー部が絶対欲しがりそうな女子だった。)

 

そんな中学生デビュー。

練習は音出しより、走り込みや筋トレの記憶のほうが強い。

ついていかない体力、もともとの性格、先輩との相性

夏のコンクール前、ついに食事が摂れなくなった。

それでも、辛いのは私に努力が足りないからだと、必死に先輩の話に耳を傾け、練習に打ち込んだ。

母は料理ができないので、父が作ってくれたお弁当に手も付けられず、ただただ泣きながら練習していた。

その頃から、 自殺 その言葉を、意味を、たぶん初めて「認識した」のだと思う。

 

本やネットで調べて、リストカットへたどり着いた。

自分を傷つければ、誰も傷つけず、この言葉にも行動にも表せない苦しさをそこに一旦置いておけた。

これは素晴らしい発見だった。自分でちゃんとできるぞ、と。

ただ周りの目は違うので、「気持ち悪い派」と「楽になるなら私もやる派」で分れた。

ここで発端になってしまった私へのあたりは強かった。

親や学校側からしたらもっともだと、やっぱりこれも大人になってはじめてわかることになった訳だけれども。

 

その頃から、子供相談センター?的なところに行った。

そこの職員のババア...失礼。だがそのババアは言った

「あなたの前に相談しに来た男の子、すれ違ったでしょう?あの子、小学5年生なのよ。あなたよりずっとちゃんと出来てるわ。あの子の方が立派よ。頑張ってる。あなたのは甘えよ。努力しなさい。」

といった説教を30分くらいして終わった。

うちの母には【指導者然】とした態度で、好感度バク上がりさせていた。

私は母に、もう二度と行きたくないと伝えた。

別の記事で書きたいと思っているけれど、母も強情なひとだから、何度かそのババアと会うことがあった。

それでも私の症状は改善せず。(そりゃそうだ)

結果的に、総合病院の心療内科に通院することになった。

この頃には、周りの大人たちに叱られ、罵られ倒しながら、部活は辞めた。

 

新しい病院の先生は素晴らしかった。

絵を描くこと、詩を書くこと、私の生み出すものすべて

必ず一度肯定してくれて、その上でいつも新しい知識をくれた。

先生もギターを弾くのが好きな人で、本を読むのが好きな人で、先生と話すのがとても楽しかった。

(待ち時間はいつも3時間とかだったけど。)

その間、家出1回、ODで救急車2回、飛び降り自殺未遂で警察に補導、学校での首つり自殺未遂1回と、ホットな生活を送っていた。

南条彩がバイブルで、完全自殺マニュアルがお守りという、テンプレの中学生だった。

 

高校生の頃のことはよく覚えていない。

ある程度友達はいたと思う。

ピアスだらけで、くそ陰キャ、軽音楽部に入ってみては明るさに馴染めず3か月も経たずに退部、以後帰宅部。青春とは。

高校で一番素敵だった思い出は、修学旅行の時、クラスの余りもので数合わせのためにギャルグループに入れさせられ、言われるがままお部屋にいたら、仮にAちゃんとしましょうね。Aちゃんが「夢見さん、たばこ吸う?」と、ベランダに誘い出してくれて、宿から見た夜の街の光が、それはそれは綺麗だった事です。

 

そう、通院の話でした。

 

高校の最後の頃は、先生の転院もあり、病院には行っていなかったと思う。多分。

もうこの年にもなると、記憶も曖昧です。

 

そこから10年経たないくらい。

私は高卒フリーターを経て、正社員雇用を何度か。

そして結婚をして、気が付いたのです。

毎日死にたいのも、感情のコントロールが出来ずに暴れるのも、全ては正常ではないということを。

 

最初は発達障害の線を疑って、当時住んでいた国分寺の医者へ。

発達障害自閉症のチェックシートを記入して、次回は答え合わせということで、漢方薬を処方され帰る。

次の通院の際、チェックシートの結果を見ながら、先生は

「これは発達障害だね~僕は専門医じゃないからわからないけど!はい!じゃ、いつもの漢方!」

という診察で終わった。

ならば仕方がないと、吉祥寺にある発達障害に強いお医者さんへ行ったら、現状だけを聞かれ、今すぐに診断は下せない。とにかく薬、薬、飲まないなら帰れ、という診察を受け、1時間待って5分の診察。

当時子供も欲しかった私たちは、なんの進展もなく、なけなしの給料を支払い、帰った。

当時は、残業100時間の企業に勤めていました。

毎日、中央線へ飛び込むことばかり考えていました。

そのあと、限界を感じ、間もなく退社しました。

 

話を直近に戻します。

 

今私は、都内IT系ベンチャー企業の総務をしています。

残業時間は月間60時間と、前よりも減りましたが、給料も減りましたね!。

止まる生理、止まらない耳鳴り、なくならないストレスニキビ、散らかっていく部屋、これまでの仕事よりも多いタスク、寝て終わる土日。

イレギュラーが起きた時に激しい動機、体温の上昇、涙が止まらなくなり、それを繰り返す事、スパンが短くなり、このままではまたおかしくなると思い、下北沢の医者へ、3月から通いだした次第です。

 

涙が止まらなくなる時の症状はパニック発作であって、私の意思が意識がどうの言わないで、対処するための方法と処方をくれました。

今通院している病院の先生はこちらの吐露を聞いてくれる先生で、おかげで平気で2時間くらい待つけれど、一旦ここで治療してゆこうと考えています。

 

最初の処方は毎食後のセラニン(ブロマゼパム)2㎎、パニック発作時のアルプラゾラム、睡眠の質の悪さを改善するためのトラソドン

セラニンはどうしても、言葉が出てこなくなったり、記憶が曖昧になったりで

前回の診察でセラニンをセパゾンに変えて貰いました。

セラニンより効いてる感というか、死にたい気持ちの対策になっていない感じがしていて、暫くは様子見です。

 

中学生の私に言いたいの。

29歳になっても悪夢を見たり、吐いたり、ごはんを食べられなくなったり、なんなら成人してからというもの、酒飲んで暴れたりする日々です。今頃私の肝臓が泣いてるな。

生きててよかったのかな?一緒に考えていけたらいいな。

幸せになれるのかな?見えないものを信じられない私たちだから、これからどうなるんだろうね。

 

 

こういった感じで、これまでの自分の整理と、これからの自分の経過を客観的に見るために、始めたブログです。

汚い、暗い、気持ち悪い、そういう事を吐露す場所にしたいです。

いや、します。

 

今日はここまで。

全ての吹奏楽部を悪く言うつもりはありません。

きっとこれは私の性格の問題です。

それをなんとかする、できるのか?なんとかしてゆく、ブログとします。

 

今度は親の事を書けたらいいなと思います。