いつか終わりが来るまで

3月から心療内科に通い始めたので、生活の事や心の動きを観察してゆくために。

4月12日


今日は会社で、人と言い合いになった。

わたしは、今の仕事を半年続けているけれど、今の仕事の事が全然わからない。

わからないから、決まったことや指示をそのまま伝えると、伝わらない。

ああ、伝わる方法を考えるのも仕事な訳だよな…とおもうけれど、もう正直、ぶっちゃけ、バチクソめんどくさい!以上!って感じで、クズオブクズだな。

と、思いながら頓服薬を飲む。


隣の部署で、新卒の女の子に先輩が話していた。

「自信って、お金で買えないでしょ?それは、経験からしか得られないものなの。」

うんぬん。社会人としての仕事のやり方、心の在り方、そういう部分の話をしていて、気が付いたら涙が出そうになって、喫煙所へ出た。

泣きながら旦那に電話をした。

「新卒の女の子にこのような説明をしていた。わたしはその説明していた側の子より

ずっと年上なのに、新卒の子が言われていた事、なんにも出来てない。情けない。不甲斐ない。そこに涙が止まらない。」

旦那はうん、うん、大丈夫だよーと話を聞いてくれていて、そして、煙草を吸い終わったのでオフィスへ戻った。


夜は部署飲みがあった。

わたしはビールが一番好きだけど、ホッピーも結構好き。

ただ、ホッピーとわたしの相性は最悪で、だいたい前後不覚になる。

上司がホッピーを飲んでいて、たまらずわたしもホッピーを飲んだ。

楽しくなってきちゃって、上司に、ゴールデン街行きましょう!と言った。

言ってしまったし、行ってしまった。


これを書いているのは13日。


ゴールデン街の記憶がですね、さっぱり無いんですね。

びっくりするほど無いんですよ。

何を話したのか、何を飲んだのか、いやーーーー本当にさっぱり。丸っと綺麗さっぱり覚えてなくて、目が覚めたらお布団に居ました。

怖いねお酒。

クビ案件の話バンバンしてたらどーーーしよっかな!がはは!!!!

どうお開きになったのかもさっぱりわっかんねーーーな!

タクシー代を渡されたのだけはなんとなく覚えていて、タクシーで寝ちゃって、よくわからない所に下ろされ、その上泥酔している訳だから迷子になりながらお家に帰ったのもなんとなく覚えている。

でも旦那にラーメン屋の名前をLINEで送ってて、それ食べた記憶もさっぱり無い。なんなんだ。


ホッピーは二度と飲まないぞっ。(酒飲み人生で50回目くらいの宣言)





まじ、クビじゃなきゃいいなぁ…
















4月11日

 

両親と子供の頃のこと

 

物心ついた時から、飲み屋かパチンコ屋か車の中にいた。

赤ちゃんの頃の写真を探すと、飲み屋のお姉さんに抱っこされているものばかり出てくるくらいに。

 

母方の祖父母は焼き肉店を営んでいた。

学校が終わると金曜日の夜から母と祖父母の店に行き、幼稚園だか、その前だか、小学生だかの私はお小遣いを持たされ、夕方の駅ビルをブラブラしていた。

本屋に行って本を買ったりCDを買ったり、雑貨屋でシールを見たり。

一通り見まわすと、祖父母の店に顔を出し、店の前に停めてある車に乗り込む。

車の中には5連のCDプレーヤーや、テレビ・ビデオが設置されていた。

今考えるとすごいよなあ。当時はそんなオプション自体あったかどうか。

私は車の中で、お客さんの波が引くのを待つ。

当時は景気もまだ良くて、お客さんはなかなか引かない。

私が夕食を食べに店へ行けるのは、いつも22時とか。

混んでいて店に入れない時は車の中で食べた。

時には更にお小遣いを貰い、近所の吉野家モスバーガーにご飯を食べに行った。

0時を過ぎて店が落ち着くと、祖父母の家へ行く。

お風呂に入り、祖父母の帰りを待ちながら、コタツでうとうとしていた。

祖父母が帰ると今度は大人たちの食事で、わたしもお刺身を食べたりした。

祖父は可愛いものに意地悪をする人間だったので、コタツで眠る私を何度もくすぐっては起こし、また寝たらくすぐっては起こし、を繰り返していた。

大人たちが満足すると、私は寝室へ行く。

大体3時頃だった。

 

たまに、父が迎えに来てくれる事もあった。

その時は、露店でアクセサリーを買ってもらったりしたけれど、殆どは帰り道にパチンコに連れていかれ、終わるのをじっと待っていた。

 

 

平日は、ピアノとバレエと英語と数学を習っていた。

一番じゃなければ怒られてしまうから、ひどく緊張しながら通っていた記憶がある。

そしてその緊張の糸もいつか切れるのだ。そして、ひとつ、またひとつと行かなくなり、中学生になってからは、受験前に塾に入りなおしたくらいだった。

両親はこの頃もう、私に対して諦めていたんだろう。

 

そう、それはまだ小学生以下で、習い事をしていた時。

それ以外の日は学校から帰るとまず自分の家の駐車場を確認する。

車は、大概無い。

そんな時は、両親が、もしくは母が、パチンコに行っていた。

私はよく家の鍵を無くす子供だったので、どうしてもトイレが我慢できない時は、近所の幼馴染の家に助けて貰っていた。

言動も行動もおかしな子供だったので、用が済んだらすぐに家を出されたけれど。

そして、駐車場で母が帰ってくるのを待つ。

赤いダニを潰すのがすごく好きだった。今も好きだ。

話がそれた。

2.3時間も待てば母が戻ってくる。

私が車を認識して、母が私を認識する。

「早く乗って!今確変中だから!!!」

言われるまま車に乗り込み、ここでもまた、終わるのを車で待つ。

車に積んであるテレビで、ビデオに録画したアニメを見ながら。

22時過ぎに母は車に戻ってきて、そこからファミレスに夕飯を食べに行く。

母は料理が作れないから。

パチンコに行くのが母一人の時は勝とうが負けようがまあ、そうでもなかったけれど、父が一緒に行き、大負けした日には本当に最悪だった。

前の座席で繰り広げられる喧嘩、お互いを罵りあっていた。

二人とも直情的な人間で、喧嘩がヒートアップすると、父は車を飛び出して、携帯をどこかに捨てて、行方をくらましてしまう。

私と母はそれを追いかけまわしたり、夜中に居なくなってしまった時は叩き起こされ、町中を探し回った。

知っている飲み屋、いつも通る道、いつも通らない道、探して探して、見つかると父は泥酔して、わいわい喚いていた。内容なんかは覚えていないけれど。

 

そう、父は酒乱なのだ。その上パチンコ依存症なのだ。

何かあればパチンコパチンコ、勝ったらいつもより優しくて、負けたら鬼のようだった。本当に、あれは鬼だったんだ。ところでいつもって何なんだろう?

そして酒を飲み、暴力こそしないけれど、物に当たり、怒鳴り散らし、出て行ってしまう。

そして母と捜索に行く。繰り返し。

 

母もパチンコ依存症だった。お酒は飲むけれど、楽しい酒が飲める方、、、だと思う。

パチンコは今はもう辞めて、携帯ゲームばかりしている。

スマホタブレット、総勢7台体制で。いやー、よくそんなに夢中になれるもの、あるよな。すごいよな。ところでお金、どこから出ているんだろうな。。。

私が何度、死にたい、苦しい、助けてほしいと言ってもため息をつくだけだけれど、ゲーム内の友人がちょっと病んだら一晩中、電話で話を聞いてあげている。

家族<ゲーム まさに依存症の典型!という感じの母親だ。

 

祖父母の家に行かなくなったのは中学校に上がって少ししてからだった。

土曜日は元コックの父の手料理が食べられる日だったが、やっぱり頭が少しアレだから、とんでもない量を出してきて、完食しないとまた怒鳴り散らしたりした。

テレビで美の巨人たちを見るのだけが楽しかった。

 

多分、子供の頃はこんな感じで終わった。

そして私は高校卒業後フリータになって

成人して

家を出た。

 

彼と半同棲の頃、実家に戻っていたら父親に「別れたら、パパとママ、どちらについていく?」と唐突に聞かれた。

母はまず会話にならないので、酒乱は気になるけど距離さえ保てばまだ話の通じる父について行こうと思った。

「パパについていく。ママとは、ちょっとやっていける気がしない。ママの親族とも。」

そう言うと

「そうだよな。あいつら皆韓国人だしな。文化が違うもん。」

26歳の頃だった。

初めて、自分が混血なことを知った。

衝撃的だった。私にとっては、世界が音を立てて崩れるくらいに。

私は日本国籍の父が出生届を出したから生まれてからずっと日本国籍だったけれど、周りは何百万もかけて全員日本に帰化したそう。

26年間嘘をつかれていたという事実が一番、苦しかった。

 

その後何とか関係を立て直したけれど、父のパチンコ依存症も酒乱も治らないし、母のソーシャルゲーム依存症も治らない。何も変わらない。ただ年だけ取っていく両親のこの先を、私はどんな気持ちで見ていけばいいのか、まだちょっとわからない。

 

両親についてはもっと沢山お話ししたい事があるけれど、今日はここまで。

 

今日はお天気が良かったからか、まだなんとか元気だったけど、やっぱり、会社にいることが苦しくなってきてしまったので、タイムリミットは近付いているのかな、と感じた。

4月10日

昨日の夜、いつ開けたかわからないコーラをウイスキーで割って飲んだ

眠る前に吐いた

起きて、今日は体サイドがダメだと瞬時に気付いた。

ですがこちらは社畜

這ってでも会社に行くのが礼儀ってもんです。

 

最近の小田急線のダイヤの乱れ方、すごいですね。

セックスレスの人妻でもあんな乱れ方しませんよ。

まあ私の事なんですけれども。

 

出社即体調悪い旨を伝え、定時で帰らせて貰うことに。

入社して半年!初めて!!すごい!!!!!!!

 

帰宅しておもったことは、定時で上がれると、それなりに自分の時間が取れるんだ、まじか、そっか。でした。

ごはんをゆっくり食べること、ブログの更新。

いつもの時間でこれやってたら3時とかだよ。すぐ仕事じゃないすか。

 

いや、こちらもベンチャーですし、社会人ですし。時間は作るものですし、体調は整っていてあるべきもの。。。。。。。。。。。。。ってこの野郎。

時間はある中で最大限のパフォーマンスをするんです。そのために休む時間が要るんです。なんかごりごりの人たち見てると、皮を剥いだら鋼製の躯体なのかもしれねーな、と思うんです。

でも私は、私自身が血肉で出来ていて、劣化するし腐るし、使えなくなる事も知っているので、なんかこう、うまくやっていきたいですねえ。

 

今日は午前中、本当に苦しくて、苦しくて、薬変わったから副作用なんでしょうかねえ?

効きの違いなのか、頓服を飲まずにいられない。

吐き気、眩暈、足元のふらつき。それでも、今の私は薬で保たれているって、なんとなく、わかっている。

薬なんて飲まなければよかった。心療内科なんてただの甘えだ。

ただただ、苦しいです。

 

けれど、それでここまで来て、弊害が出ているのだからやっぱり、根本の解決をしてゆかないとね。社会人だしね!

ゴールの見えないマラソンです。

いつまで走れるのかな。

せめて、夫を不幸にしないくらいには正常に、暮らしていきたいです。

4月9日

はじめに。

 

私が精神科に通い始めたのはずっと前だった。

 

中学一年生

うちの学校は必ず部活に入らなければならなかった。

その中で、ここだけは入ってはいけないと言われていた部活があった。

吹奏楽部     「一種の宗教」と呼ばれていた。

わたしは、頭が悪い上に目立ちたがりで、器用貧乏なため体験入部の時から普通に音が出た。

そこで気を良くし、まんまと吹奏楽部へ入ったのだった。

 

私の希望していたパートはトランペットだった。

パーンと響く音が強くかっこよく思えた。

入部の際には全員、希望のパートを記入した用紙を提出した。

第一希望:トランペット 第二希望:コントラバス 第三希望:チューバ

まだ⒔4のぽやぽや頭なのだから、第一希望のパートに決まるものだとばかり思っていた。

発表の日、ドキドキしながら結果を待っていると、伝えられたパートは

【チューバ】

ほかに希望に記入した人は一人もいなかったそうだ。

そりゃあ、そうなるんだろうな。

大人になってやっとわかったけれど。

 

チューバパートは先輩は全員男性。

対して私、152㎝で割と小柄なほうの女性。

チューバは10キロの楽器。

これからどうなるんだろうか、そんな新学期だった。

(ちなみに、私の欲しかったトランペットパートを獲得したのは、学年一背の高い、すらりとしたバレー部が絶対欲しがりそうな女子だった。)

 

そんな中学生デビュー。

練習は音出しより、走り込みや筋トレの記憶のほうが強い。

ついていかない体力、もともとの性格、先輩との相性

夏のコンクール前、ついに食事が摂れなくなった。

それでも、辛いのは私に努力が足りないからだと、必死に先輩の話に耳を傾け、練習に打ち込んだ。

母は料理ができないので、父が作ってくれたお弁当に手も付けられず、ただただ泣きながら練習していた。

その頃から、 自殺 その言葉を、意味を、たぶん初めて「認識した」のだと思う。

 

本やネットで調べて、リストカットへたどり着いた。

自分を傷つければ、誰も傷つけず、この言葉にも行動にも表せない苦しさをそこに一旦置いておけた。

これは素晴らしい発見だった。自分でちゃんとできるぞ、と。

ただ周りの目は違うので、「気持ち悪い派」と「楽になるなら私もやる派」で分れた。

ここで発端になってしまった私へのあたりは強かった。

親や学校側からしたらもっともだと、やっぱりこれも大人になってはじめてわかることになった訳だけれども。

 

その頃から、子供相談センター?的なところに行った。

そこの職員のババア...失礼。だがそのババアは言った

「あなたの前に相談しに来た男の子、すれ違ったでしょう?あの子、小学5年生なのよ。あなたよりずっとちゃんと出来てるわ。あの子の方が立派よ。頑張ってる。あなたのは甘えよ。努力しなさい。」

といった説教を30分くらいして終わった。

うちの母には【指導者然】とした態度で、好感度バク上がりさせていた。

私は母に、もう二度と行きたくないと伝えた。

別の記事で書きたいと思っているけれど、母も強情なひとだから、何度かそのババアと会うことがあった。

それでも私の症状は改善せず。(そりゃそうだ)

結果的に、総合病院の心療内科に通院することになった。

この頃には、周りの大人たちに叱られ、罵られ倒しながら、部活は辞めた。

 

新しい病院の先生は素晴らしかった。

絵を描くこと、詩を書くこと、私の生み出すものすべて

必ず一度肯定してくれて、その上でいつも新しい知識をくれた。

先生もギターを弾くのが好きな人で、本を読むのが好きな人で、先生と話すのがとても楽しかった。

(待ち時間はいつも3時間とかだったけど。)

その間、家出1回、ODで救急車2回、飛び降り自殺未遂で警察に補導、学校での首つり自殺未遂1回と、ホットな生活を送っていた。

南条彩がバイブルで、完全自殺マニュアルがお守りという、テンプレの中学生だった。

 

高校生の頃のことはよく覚えていない。

ある程度友達はいたと思う。

ピアスだらけで、くそ陰キャ、軽音楽部に入ってみては明るさに馴染めず3か月も経たずに退部、以後帰宅部。青春とは。

高校で一番素敵だった思い出は、修学旅行の時、クラスの余りもので数合わせのためにギャルグループに入れさせられ、言われるがままお部屋にいたら、仮にAちゃんとしましょうね。Aちゃんが「夢見さん、たばこ吸う?」と、ベランダに誘い出してくれて、宿から見た夜の街の光が、それはそれは綺麗だった事です。

 

そう、通院の話でした。

 

高校の最後の頃は、先生の転院もあり、病院には行っていなかったと思う。多分。

もうこの年にもなると、記憶も曖昧です。

 

そこから10年経たないくらい。

私は高卒フリーターを経て、正社員雇用を何度か。

そして結婚をして、気が付いたのです。

毎日死にたいのも、感情のコントロールが出来ずに暴れるのも、全ては正常ではないということを。

 

最初は発達障害の線を疑って、当時住んでいた国分寺の医者へ。

発達障害自閉症のチェックシートを記入して、次回は答え合わせということで、漢方薬を処方され帰る。

次の通院の際、チェックシートの結果を見ながら、先生は

「これは発達障害だね~僕は専門医じゃないからわからないけど!はい!じゃ、いつもの漢方!」

という診察で終わった。

ならば仕方がないと、吉祥寺にある発達障害に強いお医者さんへ行ったら、現状だけを聞かれ、今すぐに診断は下せない。とにかく薬、薬、飲まないなら帰れ、という診察を受け、1時間待って5分の診察。

当時子供も欲しかった私たちは、なんの進展もなく、なけなしの給料を支払い、帰った。

当時は、残業100時間の企業に勤めていました。

毎日、中央線へ飛び込むことばかり考えていました。

そのあと、限界を感じ、間もなく退社しました。

 

話を直近に戻します。

 

今私は、都内IT系ベンチャー企業の総務をしています。

残業時間は月間60時間と、前よりも減りましたが、給料も減りましたね!。

止まる生理、止まらない耳鳴り、なくならないストレスニキビ、散らかっていく部屋、これまでの仕事よりも多いタスク、寝て終わる土日。

イレギュラーが起きた時に激しい動機、体温の上昇、涙が止まらなくなり、それを繰り返す事、スパンが短くなり、このままではまたおかしくなると思い、下北沢の医者へ、3月から通いだした次第です。

 

涙が止まらなくなる時の症状はパニック発作であって、私の意思が意識がどうの言わないで、対処するための方法と処方をくれました。

今通院している病院の先生はこちらの吐露を聞いてくれる先生で、おかげで平気で2時間くらい待つけれど、一旦ここで治療してゆこうと考えています。

 

最初の処方は毎食後のセラニン(ブロマゼパム)2㎎、パニック発作時のアルプラゾラム、睡眠の質の悪さを改善するためのトラソドン

セラニンはどうしても、言葉が出てこなくなったり、記憶が曖昧になったりで

前回の診察でセラニンをセパゾンに変えて貰いました。

セラニンより効いてる感というか、死にたい気持ちの対策になっていない感じがしていて、暫くは様子見です。

 

中学生の私に言いたいの。

29歳になっても悪夢を見たり、吐いたり、ごはんを食べられなくなったり、なんなら成人してからというもの、酒飲んで暴れたりする日々です。今頃私の肝臓が泣いてるな。

生きててよかったのかな?一緒に考えていけたらいいな。

幸せになれるのかな?見えないものを信じられない私たちだから、これからどうなるんだろうね。

 

 

こういった感じで、これまでの自分の整理と、これからの自分の経過を客観的に見るために、始めたブログです。

汚い、暗い、気持ち悪い、そういう事を吐露す場所にしたいです。

いや、します。

 

今日はここまで。

全ての吹奏楽部を悪く言うつもりはありません。

きっとこれは私の性格の問題です。

それをなんとかする、できるのか?なんとかしてゆく、ブログとします。

 

今度は親の事を書けたらいいなと思います。